モルジブ通信

Friday, June 29, 2001

モルジブ通信 2 - ムスリムについて

こんにちは。

モルジブ通信第二号です。

今回からは第一回目でカバーしたいくつかのトピックスをひとつひとつ掘り下げていきたいと思います。今後カバーしていく内容は、ムスリムとはなにか、モルジブの政治経済、ツーリズム、モルジブ人の家族・結婚事情、教育事情、いまどきの若者事情、環境問題について、の予定です。広告屋の人たち向け的には、モルジブのメディア事情、とかもやってみたい気もしています。回が進むにつれとかリクエストを受けたりとかで順番や内容も変わるかも知れません。

そして今回は、モルジブの国の根幹を支えている「ムスリムであること」について。

まず本題にはいる前に、ビッグピクチャーからのアプローチ。

モルジブの社会を特徴づけている大きな要素として、「宗教」「地形」「ロケーション」の三つがあげられるような気がします。これは政治・経済のあり方に限らず、モルジブのツーリズムのあり方や、家族・結婚事情、教育事情など、すべての社会状況に関わる根元的要素といえるでしょう。

「宗教」的要素とは、ムスリムであるというがために、当然、国としての方向性が宗教的ノームによって決められるということ。「地形」的要素とは、島々が点々としていることにより、運輸関係の発展を困難にしていることと、それに伴い、統一してどこの島も同じように経済発展していくことが本当に難しいというようなこと。「ロケーション」要素は、南アジア文化圏であるがための経済発展の遅れ。これは宗教的ノームにも大きく起因していることがひとつ、と、「おいつけ、おいこせ」の目標となるこの地域で一番発展しているのはインドしかないこと、というようなことが関係してきます。

で、
今回は、無宗教が大半を占める日本人には、感覚的にちょっとわかりにくい「宗教が溶け込んだ生活」について説明します。というか、ムスリム(モルジブはスンニ派)について。それは、今後のモルジブ通信でカバーするどのトピックスにも関わってくる大事要素なので。でもかなり私の主観が(もしかしたら誤解も)はいっているので、取り扱いには注意してくださいね。


イスラム教(それを信じている人たちがムスリム)とは、アッラーの神を全知全能唯一絶対の神とした宗教で、コーランという神のメッセージを書いた本が聖書のような役割を果たしています。ベースになっている考え方は、アッラーを信じて敬えば最後の審判の時に救われる、という考え方で、信じていない人は救われないことになります。そういう考え方自体、ぜんぜん許容範囲がせまいじゃん、とか、わたし的には思うのですが、イスラム教的にはアッラーはもっとも慈悲深いとしています。

ムスリムはコーランに書いてあることをノームとして日々の生活に繁栄させています。コーランはアラビックで書かれており、アッラーの意志をそのまま正しく伝えるためにも翻訳はされないことになっています。モルジブではディベヒ語というのが国の独自の言葉ですが、お祈りの際にはみんなアラビックでコーランを読んでいます。

アッラーを信じ敬って忠実であるいう証に、信者がやらなきゃいけないことは五つ。

1)入信するときの誓い「アッラーに身も心も仕えます」と。

2)一日五回のお祈り。
日の出・昼・午後・日没・夜。太陽の動きによって日々時間が変わります。お祈りの時間になるとモスクからスピーカーでコーランを読む声が流れてきます。約五分続きます。けっこううるさいです。お祈りはアッラーに自分を創造してもらったことについて感謝し、最後の審判の時に救われるよういい行いをするように心がける誓いを繰り返しするためのものみたいです。お祈りの時間帯には街のお店は15分閉まります。オフィスではみんな空いた時間にちっとお祈りするくらいで、べつにモスクにも行かないし、時間通りきっちりしているわけでもないし、その辺は意外にフレキシブルなようです。

3)ザカット。
金を持っている人は年収の25%を貧乏な人にわけてあげる、という行い。私がホームステイしているお家は裕福な家なので、この間「今日は貧乏人にお金を上げてきた」とかいってました。どうやってわけてあげるのか、とかどのくらいの収入の人を貧乏人と呼ぶのか、勉強不足のため、ナゾです。

4)断食。
これももともとのベースの考え方は、「いかに貧乏人がつらいか」を身を持って知る月間だそうです。一ヶ月間、日のあるうちは食べ物はもちろん水を飲むことも許されません。日が落ちてからごはんなのですが、要は一日一回ディナーだけ。月間が始まってしばらくはつらいけど、慣れるとそうでもないそうです。モルジブ人はみんなやせていてすごくスタイルが良いのですが、それはこの断食のおかげだ、とか誰かがいってました。

5)ハジ
ご存じ、メッカ参り。一生に一度はいかなきゃいけないらしいが、でもそうすることの出来る時間とお金のある人だけでいいらしい。。。

やらなきゃいけないことってのは意外にこれだけで、じゃああの女の人がカオに布巻いたりするのはいったいどこから来るんや、とか思ったら、コーラン以外にスンナというムスリムの人が日々の生活をするにあたってのマニュアルがあるそうです。これもアッラーが伝授したもので、ムスリムはその規範に従って生活するそうです。すべてそれにそって生活するのが「忠信」の証だと。

そのスンナとかコーランとか、ムスリムの生活スタイルの中で他の宗教と違って際立つステレオタイプ的なところでは、やっぱり女の人のカオに布を巻くスタイルでしょうか。これはモルジブだけでなく最近どこの世界でも流行っている女の人権問題にも関わってくるネタなのでちょっと詳しく述べてみたいと思います。

モルジブでは、サウジアラビアのように住んでいる外国人に布を巻かさせたりはしませんが、やはり私たちはローカルの文化をリスペクトする、という意味で、露出過多の服は着ないように指導されます。例えばタンクトップとかホットパンツとか、NYや日本では「だから夏が楽しいんじゃん」とされるような服は「エッチ過ぎる」という理由でリゾート以外の場所では着れません。なので半袖長パンツ、というのが普段の服です。またリゾート以外のビーチで泳ぐときは、水着になることは出来なくて、Tシャツ短パンでないといけません。ローカルの女の人たちは、カオに布巻いたままで海で泳ぎます。でもローカルの男の人たちは上半身裸で短パン水着で泳ぎます。

ローカルの女の人たちの普段の服は、若い子は半袖長パンツの西洋の服を着ている人もたくさんいますが、信心深い人たちはやはり「ブルガ」というカオに布を巻くスタイルをとっています。それはコーランだかスンナだかの中に、「女の人は美しすぎるから、その体形や髪が見えて男の人を誘惑してしまうため、体の線が見えないよう、髪が見えないよう、布で覆いなさい」というフレーズがあるそうです。

そんなの誘惑されてどうにかなっちゃう男の方がわるいんじゃん、なんで男のために自分がおしゃれする楽しみをあきらめなきゃいけないわけ、とかわたし的には思っちゃいますが、そういう伝統的服装の背景には、モルジブの社会的背景、というか南アジア文化圏であるという「ロケーション」、あとは他国から隔離されていてモルジブ独自の規範が作りやすかったということ、海に囲まれた漁業という産業しかなかったという「地形」的理由が絡んできます。

前回のモルジブ通信で、「ムスリムは女に人格を持たせない宗教だ」というコメントを致しましたが、正確にいうと違います。アッラーの教えのコーランでは、男と女の人権は平等である、と明確に述べられているらしいです。でもじゃあどうしてムスリムは女を抑圧しているようなイメージがあるのか、というと、それは中東・南アジア圏の文化的社会的背景がベースにあるような気がします。

コーラン(スンナも)はそれこそ聖書と一緒で、生活スタイルが書かれているといっても、あいまいにしか書かれていないので、それをどう解釈するかによって規範のきびしさ具合がかわります。「体や髪が見えないよう布で覆いなさい」といってもサウジアラビアのようにほんとにすっぽりアタマから全身かぶるものから、モルジブのようにちょっとデザインはいってウエストラインは見せつつ、アタマに巻く布は別布というものもあります。コーランの解釈をどうその国の法律や生活に反映させるかは宗派やその国の事情事情によって違い、モルジブの場合についていうと、その解釈はだいぶ「リベラル」だそうです。

それでも、アメリカにいるムスリムはべつに布かぶっていない人が多いし、布かぶっているイメージはやっぱり中東・南アジア圏のムスリムにある気がします。だって、体を布で覆うだけなら、普段の私たちの服だってすでに覆ってるじゃん。でもさらに隠すために女の人が過剰に着なくてはならない事情は宗教を越えて「女の人の社会的地位」が関係してきているようです。

日本だってちょい昔まで、お父さんがお風呂に一番にはいる的なものがあったのと同じで、モルジブでもやっぱり、平均10人以上いる家族の中で一気に食卓のテーブルにつくことは出来ないため、まず男の人グループが先にご飯を食べ、女の人グループは男の人が終わってから食事する、という習慣があります。わたしは「ゲスト」なのでホームステイファミリーの男の人グループとごはん食べてますけど。また、マーレのカフェでお茶したりしているのはたいてい男の人で、めったに女の人が出歩いているのを見かけたりすることはありません。なので、わたしとかがふらふら出歩いているとすごく注目されます。

モルジブでは、島々が海に囲まれているため、昔から漁業がメインの産業でした。そのため男の人は普段魚釣りに海に出かけ家を空け、女の人は男の人が家を空けている間家を守るために島にステイする、で、女は家にステイしていなきゃいけないから、政治に出かけるのも男、という図式がずっと昔から積み重ねられ、男が優位な社会構図ができあがったようです。だから男自身で自制するよりも魅惑するものを隠してしまえ、という発想がでてくるのです。

要は昔から積み重ねられた「習慣」が宗教とまじわって日々のノームができあがっているようです。ま、どこでも同じですね。南アジアでももともとそういった男性優位の習慣が昔からあったためそれが引きづられてきていて、しかもモルジブではとくに隔離された地形のため独自にその習慣が政策・法律に反映されて変化してきたのと、モルジブの地形に源するdivision of laborの事情があいまって、モルジブの女性のいまの地位が確立されたようです。

また、聞いた話ですが、マーレから遠いアトールのある島の小さな村で未婚の女の子が妊娠したことがあったとき、ムスリムでは婚前交渉は厳しく禁じているため、村裁判になったそうです。父親が誰だ、となった時に、女の子にこいつだ、と言われた男は「おれはしらない」で通したら、二人がつきあっているのは公認でみんなが知っていたことなのに、男の言い分が通り女の子一人が罰せられたことがあったそうです。それも先進国の女性人権問題グープから見たらとんでもないことだとは思いますが、宗教やその国の事情に根付いて習慣が出来てしまっていると、「正しい」判断基準がほんと国さまざまになるのも分かる気がします。

一応いまモルジブではそういったゆがんだ構図をコーランの教えに従って直すべく女性人権問題には取り組んでいるようです。まあ、どこの国でもいっぺん出来た習慣がそう簡単に変わらないのと同じで苦労はしているようですが。

ただ、モルジブのすすんでいるところ、というか他の中東・南アジア圏のムスリムと比べて、「リベラル」と言われる要素のひとつに、平等な教育機会、というのがあります。女の子も男の子同じように教育が受けられるのと、教育熱心なモルジブ人気質があいまって最近の若者たちはだいぶ、古いものに流されない、正しいもの新しいものを取り入れていくという革新的な考え方も出てき、新しい習慣(?)も出てきているようです。ツーリズム等の影響で他国の楽しそうなものがつぎつぎ目の前にあるのに、自分たちのものにしない手はないってことでしょうか。

最近のモルジブの若い女の子はあまりブルガスタイルをしていないのでみんなそれをどう思っているのかな、とか思ってこの間若い男の子にちっと聞いてみたら、いまさら「流行らない」んだそうです。信心深いに限るけど、いまさらあのかっこはねえ、、、、だって。ブルガしなきゃいけない、っていうのも単なる習慣で、体は日々の半袖長パンツの洋服で覆えているんだからいいじゃんってことみたいです。若いムスリム的には、やっぱり楽しい方の解釈に傾いていくのね、と思いました。

まあでも、どの解釈が正しかったのかとかすべては最後の審判の時に分かるので、いまは楽しい方がいいに決まっている、ということで、最近はモルジブ人の間でも婚前交渉はあるらしいです。

ということで、長くなりましたが、今回はここまで。



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